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米国の住所表記の仕方が気に入っている。ある住所をできるだけ簡潔でかつ判りやすい方法で、地図上の一点に対応させるという姿勢がはっきりしている。大袈裟にいえば、優れた工芸品に見る、独特の機能美のようなものが感じられる。なかでも、ニューヨークの住所は判りやすい。私のこれからしばらく滞在するアパートの住所は
400 W.
119
だが、ご存知のように英語の住所表記は、住所の付近から同心円状により広い地域での限定表記に移ってゆく。最初が番地、次が通りの名前、その次が町あるいは市、そして州、郵便番号の順である。この順にやや異例の形で、番地と通りの名前が終わった直後に、アパートなどの何号室といった番号が挿入される。これは勝手な推測だが、アパートなどの部屋番号をこういう順で入れることにすると、例えば
に比べて、番地と部屋番号の区別がつきやすいからではないだろうか。それはともかく、私の住所がニューヨークのどのあたりにあるか、見当をつけるのは実に簡単だ。マンハッタンの住所表記は、5番街で街を東西に区切り、5番街より東側をEで、西側をW.で示し、番地は、5番街とそれぞれの通りの交差点を起点に、そこから遠ざかるほど番号が大きくなるように付けられている。従って400
W.という番地から、5番街より西で、しかも数ブロック隔たっていることがわかる。119
St.は文字通り、119丁目である。セントラルパークの南端が59丁目、そこから凡そ50ブロック程セントラルパークは北に広がっていて、その北端は109丁目である。119丁目はそこから更に10ブロック北、良くご存知の方も多いだろうが、要するにコロンビア大学のすぐ東隣り、アムステルダム街を東に渡るとすぐのところにある。
ニューヨークの住所表記は、街に似合って実に乾いてそっけない。同じ碁盤目の町である、京都の住所表記と比べて欲しい。私の本籍地は、京都市上京区室町通今出川下ル北小路室町396番地である。実にべたーっとした地名ではないか。手に触れるとねっとりなにかがくっつきそうな印象だ。ここに住むからには、なぜこの通りがこういう名前がついているのか、50年前、100年前、明治維新のころ、応仁の乱の前、ここにはだれが住んでいたのか調べずにはいられないような地名が犇いている。住所の知らせ方はニューヨークと基本的には同じなのに、である。どちらもタテ、ヨコの通の名前から、どの交差点に近いか知らせている。京都の地名はそのうえ、交差点からどこへ行けばよいかまで親切にも教えてくれる。(上ルは北へ、下ガルは南、あとは東入ル、西入ル)。
乾いた街、といえばきこえは良いが、要するにあらっぽく、がさつで、そっけなく、遠慮なく金を毟り取り、どんどん先に進んでゆく、それがニューヨークというところである。10年前はおろか、5年前にはあらゆるメディアで評判だったレストランやナイトクラブが、跡形もなく消え去り忘れられる。そういうところである。この歳になって今更一旗でもないが、新しい世紀を迎えた、NYでの一旗のあげっぷりぐらいはきちんと観察してみたい。とはいっても、とりあえずは、身辺雑記から出発だろう。
1 2003年9月15日:曇り
色んな経緯や偶然の要素も手伝って、8月下旬から当分の間、ニューヨークに滞在することになった。もちろん、研究資金を得た研究課題もあるし、名目上はある程度の仕事をこなす義務もあるが、客員で米国の大学に滞在するというのは、殆どサファリパークの放し飼いの動物と同じような身分で、ものめずらしく見物されるくらいが期待される役割という至って気楽な身分である。何をいまさら、という気分は書いている本人にも強くあるが、まあ暇に任せて、多少のニューヨーク観察日記でも残しておこうかと思う。
実はもっと早くから、こういう日記を残す予定はあった。昔話にはなるが、米国東部には都合7年間も住んで経験もあるし、もちろん色々な理由で米国出張の機会も多い。すぐにこちらの生活にも慣れると高を括っていたのだが、立ち上がりが意外と面倒だった。その理由の一端は、今回の滞在では、中身はともかく少なくとも形式的にはコロンビア大学とニューヨーク大学双方にオフィスがあり、全ての手続きが二重になり、その分手間取ったことがある。当たり前だが、1970年代後半から80年代前半にかけてこちらに居たころに比べると、何かにつけて、セキュリティが煩く、手続きにも時間がかかる。銀行口座開設にさえ、過去の信用調査履歴がないと、そう簡単ではない。他方、現金で決済するのを極端に嫌がるこの国では、銀行のカードと小切手がないと面倒なことこの上ない。と、何やかやで時間もかかり、ようやく滞在開始から2週間あまりたって一段落し、そろそろ生活にリズムも出てきた9月15日、つまり先週の今日、ちょっとした事件がもちあがり、それから1週間、その解決に時間がかかってしまった。
既に書いたように、私は1週間の半分をコロンビア大学、残り半分をNYUに分けて、二つのオフィスに交替に通っている。先週月曜日、NYUでのオフィスで仕事をほぼ終えた午後4時頃、こちらに来て以来どうも胃腸の調子がおかしいと感じていたのが、どうも本格的に胃痛が始まり、椅子に腰掛けているのさえ辛くなりソファに横たわって数分もしないうち、強烈な嘔吐感と共に暗赤色の吐血。何とか、オフィスから這い出て、近くの方に救急車を頼んだ。こういう時、不思議と本人は落ち着いているが、周囲の教官や秘書がびっくりして右往左往し、あわてて駆けつけたセキュリティの人間もびっくりして私の顔を心配そうに覗き込んでいる。しかし、実際吐血してしまうと、変な表現だが気分は実に爽快で、先ほどまでの不快感は嘘のように消え去り、ともかく今日は仕事もしないし、しばらく気楽に生活できるなあ(というほど懸命に仕事をしていたわけでもないが)とぼんやりと考えている。いずれにしても、自分自身では、以前にも経験のある胃潰瘍が少し病状悪化して吐血したことがほとんどすぐに判る。そのことを懸命に皆に説明しているのは、救急車の到着にはしばらく時間がかかっているせいだ。
漸く到着した救急車から、パラメディックと呼ばれる、救命要員が担架を持って現れる。先頭にたつのは、見るからにたくましそうな女性隊員、ヒスパニック系の訛りが少しある。実に頼もしい。エレベータで玄関まで降り、建物前の道路に駐車されている救急車に担架で運ばれる。救急車の中で、ベッドに腰をかける姿勢を取らされると急速に意識が遠のき、救命隊員は予想外の事態に多少びっくりしてかなりの力で、頬をたたき、返事を迫られる。低血圧の影響がもろに出て、血圧が低下して若干脈が乱れていることを救命隊員が電話で報告している。あっという間に到着したのは、St. Vincent Hospitalというどうやらカトリック系の病院。急患専用に入り口から入り、ICUへ。
ほぼ予想されたように、何はともあれ検査と点滴である。検査は、血液採取から始まる。その上、点滴のため静脈へ注射針も入れるので、あっという間に両手に注射針、両足、胸4箇所に心電図のためのコードがくっつき、計10本近くのコードと管で身動きが取れなくなる。しばらくすると、消化器専門の医師が胃カメラを利用した検査のため助手と共に現れる。手短かに検査の内容と、場合によっては、管の先についているレーザーで潰瘍を焼ききることもありうるとの説明。納得したというと、目の前に検査同意書面とボールペンが突き出され、体中の管やコードを振り回しながら、署名する。胃カメラを飲み込む検査は以前、日本の人間ドックでうまくゆかず、心理的に強い恐怖感があり、麻酔がないと到底不可能だと必死で訴えると、にやりと口の端で笑った医師は、心配するな、目が覚めたら検査のことなど何も覚えていないよ、といわれる。実際、あっという間に意識はなくなり目が覚めると、ICUの病室のベッドに横たわっている。しかし、検査の間必死に管を飲み込もうともがいていた自分の記憶ははっきり残っている。検査結果を説明に医師が現れたのはもうすっかり夜になってから。そこそこのサイズの潰瘍が3箇所あること。胃の入り口近くに、大きな塊があり、血液が凝固したものか、別の潰瘍か、最悪の場合、癌などの別の種類の病変か、もう一度検査しないと確定出来ないと告げられる。さすがに、その日のうちに退院できるとは考えておらず、納得して最初の一夜を迎える。やはり意識は朦朧としていることが多く、目が覚めたり、眠ったりをずっと繰り返す。翌日もICUで同じ状態のまま検査もなく、夜を迎える。NYUの同僚でこの間ずっと面倒を見てくれた人物がこの日も2度3度と病室に来てくれる。夕刻6時近くになりようやく二度目の検査。今回もあっというまに麻酔で意識を失う。今回は覚醒後も検査のときの記憶が全くなく、客観的な理由は何もなく、医師からの説明もないまま、検査で何も問題は見つからなかったはずだと確信している。実に不思議だ。日ごろはそれ程楽観的な人間ではないのに、何故か、昨日の吐血以来、不思議と実に状況を楽観している自分。
案の定、翌日病室に担当医が現れ、何も新たな病変はなく、要するに胃潰瘍で、薬で治療できること、投薬の効果を7週間後もういちど胃カメラで確認することを告げられ、あっという間に退院。2泊3日で、秋晴れのニューヨークの町をさすがにタクシーに乗って、アパートに戻る。
2.2003年9月21日:快晴
退院以来、完全静養で何もせず日曜を迎える。日曜日にニューヨークにいることの特権はいろいろあるが、何といってもニューヨークタイムズの日曜版を買って、部屋中に新聞を広げて、朝とも昼ともつかない適当な食事をほお張りながら過ごすことにつきる。大学院生時代から、この習慣はずっと続いた。20年以上経っても、日曜版の構成は以外と変化していない。先週日曜の書評に載っていた、戦艦バウンティの叛乱の詳細な記録を追ったもの、店頭で見つけた、ある公立進学校での体験を綴った本2冊を買う。後者は一応、自分の研究に多少とも関係するので、意識してきちんと読む。
School of Dreams というタイトルのこの本の中で、ジャーナリストの著者は、1年間を過ごしたカリフォルニア州の公立高校の姿を克明に描写しながら、米国の中等教育がこの間どんな風に激しく変化したかも浮き彫りにしてくれる。公立高校として全米で1位とされるこの進学校の様子は、日本や韓国の進学校と共通するところも沢山ある。公立高校なので、入学のためには、通学地域内に居住することが第一条件だが、全米はおろか、韓国東南アジアを中心に海外からも多くの家族がこの高校進学のために移住してくる。カリフォルニア州LA郊外とはいえ、学生の3分の2がアジア系とは驚くべき数字である。周りには、この学校受験のための進学塾が沢山あり、SATと呼ばれる大学受験者のためのテスト専門の塾が出来る学生を狙って競争するのは、日本や韓国と同じである。優れた進学校が、受験勉強だけではない、学生に考える力を与え、興味を掘り起こすような素晴らしい授業をする先生によって支えられているのも世界共通だ。米国ではこの20年間くらいの間に、大学受験の様相が一変した。SATを中心とする客観テストの結果がこれまで以上に重視され、SATなど高校3年に一度受験しておしまいだったころには考えられないような、SATの点数を巡る競争、確執、論争が激化している。SATの点数を人種、親の教育程度、所得階層などで回帰分析をすると、これらの背景要因と成績の強い相関が明らかになる。例えば、アジア系の専門職に就き高所得高学歴の両親を持つ男子高校生と、アフリカ系で父親に欠け、高校を卒業していない母と暮す女子高校生を比較すると、500点以上の格差が生じる。この格差はゴルフのハンディキャップのように、扱うべきという考えも有力だ。
かつてない受験競争の激化の背景には、色んな要因がある。教育熱心なアジア系移民の流入、進学率の全体的上昇、等々。しかし、何といっても一番の理由は、大学卒とそれ未満の教育暦との間で、相対所得格差が劇的に広まり、また同じ大学卒の中でも所得格差が大きく拡大したことだろう。実際過去20年間の実質賃金率の推移をみると高校を卒業していない階層の実質賃金は事実上横ばいか、やや低下している。この20年間の目を見張るような米国の経済成長の恩恵は彼らには全く及んでいない。大学卒の階層の実質平均所得はこれらの階層の低迷をよそに、過去20年間、平均で年率8%以上増加した。しかし、同じ大学卒の間の格差も大きく拡大した。Winner takes
all という言葉は文字通り過去20年間の米国経済の成長を特徴づけるのだ。
著者は、この高校への進学、校内での試験、宿題、あらゆる場面でcheating、つまりいんちき、ずる、が横行していることを見逃さない。州の教育委員会はこの高校の成功に素直に喜んではいない。周囲の高校は何かにつけ、この高校の実績にいちゃもんをつけ、嫌がらせをしてくる。高校独自の入学試験から、州教育委員会の作成するマークシート方式の試験に無理やり変更させられるのもそうした周囲からの介入によるものだ。この試験問題が教育委員会から漏洩し、塾が入手し、試験前日に塾生にくばり問題を暗記させる姿は、読んでいても哀しくなる。多くの学生が従順だが、覇気にかけ、おとなしいというのも、日本人からみると実に納得する描写である。しかし、その分、校内が安全で、ドラッグや暴力と無縁であることが何度も強調されるのは、やはり米国の一般の公立高校の姿を背景にするものだろう。
実情はともあれ、他の分野と同じように、改めて思い知らされるのは、このような書物を世に送り出す著者の層の厚さと、内容の濃さだ。日本の書物も最近は目だってページ数の多い大部の著作が増えたが、内容の濃密さに彼我の格差を感じるのは、私だけではないだろう。この書物は、高校生・高校教師の立場から見た大学受験の姿であるが、大学のアドミッションオフィスを描いた、Gatekeepers というノンフィクションは、最近のベストセラーにもなった。NY Timesの教育面担当記者が、1年間、Wesleyan Universityというコネチカット州にある名門大学のアドミッションオフィスに通いつめて描いた学生選考の様子の描写は、受験生は無論のこと、大学側も優れた高校生をいかに引き寄せるか熾烈な競争をしており、しかもその競争の様相が、この10年程度の間に激変したことを活写する。 アドミッションオフィサーは全米行脚の旅に出て、多くの有力高校を訪れ、大学案内をするだけでなく、優れた高校生を発見すると、入学後の特典、奨学金、コース選択の便宜など、極めて具体的な形で大学が提供できる条件を提示しながら、応募と入学を勧誘する。SATに象徴されるような極めて機械的な選択基準と平行して、様々な形で提供される情報交換と話し合いには大きな人的投資と時間が必要だ。紛れのない、機械的な公平性の担保なしには合格者を決定しにくい日本の大学の事情を考慮すると、現在のいわゆるアドミッションオフィス入試なるものが、極めて限定されたものになるのも止むを得ないだろう。そうは思っても、やはり、大学入試にこれだけの努力と資源が投入される米国の姿はやはりうらやましい。といっても、文部科学省あたりが何かを勘違いし、国立大学にもアドミッションオフィス型の入試を導入したいなどと言い出すと、これまた大変なことになりそうではある。どうせ、その負担は教官にかかってくるのは目に見えている。もちろん米国のアドミッションオフィサーは専門職であり、教官ではないのだが。
といったことを考えながらゆったりとした日曜日を過ごしていて、気がつくと、アパートの窓越しに見える、コロンビア大学の図書館の丸いドームが夕日に映えて光っている。9月の日曜日は、プロ・フットボールがテレビに帰ってくる季節だ。1時から始まり、場合によっては3試合都合10時間連続でフットボールの試合を眺めることも出来る。しかし、選手の名前もなじみがなく、見ていても全く面白くない。夕食でも作ろうか。
2003年10月22日曇り
あっという間に10月も残り少なくなった。秋は駆け足というが、アメリカ東部では脱兎のごとく来ては去るのが秋である。先週の週末の天気予報では、紅葉が今週末は見頃だという、日本のテレビではよくある、他方アメリカのテレビではあんまり聞かない行楽予報のようなものをやっていた。既に、ニューイングランド郊外の紅葉は今が盛り、さすがに市内の紅葉はまだ少し、ピークには時間があるようだが、一度気温が下がり始めると一気に冬景色に変わる。その変化の激しさは、いっそ小気味が良い。
日本も米国もほぼ同時に日本シリーズとワールドシリーズが始まった。日曜日のヤンキーススタジアムは気温が8度、投手の口から吐く息がテレビでもはっきりと白く見えている。今年もまた、ヤンキースはとうとうワールドシリーズまでやってきた。リーグチャンピオンを賭けたレッドソックスとの対決は第7戦までもつれ、最終戦2点差リードで迎えた8回にヤンキースが奇跡的な逆転劇で、最後の勝利を得た。この試合は、見ごたえたっぷりで、歴史に残る名勝負ともいえる。松井も8回の逆転劇を含めかなりの活躍だったが、こちらで見るテレビ放送での感触では、やはり日本で大騒ぎするほど、ヤンキースファンに占める松井の地位は高くない。それは、特に松井が凡退した時のファンの反応に現れていると思う。例えば、ジータなどの、本当の主力バッターがチャンスで凡退した時のいかにも「あーあ」というため息に比べると、松井が凡退したときは、すんなりと次のバッターに興味が移ってしまうように見えるのだ。
レッドソックスとの因縁対決にくらべると、ワールドシリーズそのものは、私個人の印象では、やや影が薄かったように思える。相手がいわゆるエクスパンションの新設チームで、何となく他流試合のようで、見ていてもふわふわして(あくまで観客として私自身が)緊張感にかけ、何かこれこそが決戦という雰囲気が最後まで伝わってこなかった。
それにしても、メジャーリーグの選手に外国人が増えたのには改めて驚いてしまう。もともと、中南米出身の選手は沢山いたが、近年は日本、韓国などのアジア出身の選手も増えて、意外と知られていないが、本国では野球の存在感が極めて薄い、オーストラリアやカナダの選手も多い。特に彼らは、外見からは判断できないし、インタビューを受けてしゃべっているところを聞いても、オーストラリアはともかく、カナダ人の英語は何か透明で、英国から、アメリカにわたる途中のような特徴がなく(ように聞こえる)、日本人からは全く判別不可能だ。
ワールドシリーズという米国ならではの手前勝手なネーミングもあながち不適当とはいえないくらい、メジャーリーグは世界の野球選手が集まる場になってきた。 多少意味あいが異なるが、選手の国際間移動の激しさでは、サッカーはプロ野球以上かもしれない。10年くらいまえまでは一世を風靡したかに思えたイタリアのプロリーグ、それを押しのけて今や世界の一流プレーヤーの集中するスペインリーグ、もちろん本場イングランドや、フランス、ドイツのプロリーグも含め、ヨーロッパの主要リーグは、欧州内はいうまでもなく、中南米、アフリカ、近年は米国、日本、韓国あたりからも多くの選手を集める。当たり前だが、マーケットが拡大して、サービス(この場合はサッカーや野球のTVなどによる中継放送)の費用が劇的に低下したことの効果が現れている。世界中で一握りのスターやスタープレイヤーが放送を独占する。二流リーグや二流選手の試合は世界的な市場統一が起こる前に比べて見ることが難しくなってしまう。プロスポーツに限らず、メディアが配信するもの殆ど全ての分野では、市場が大きくなるとそこで活躍する選手や俳優、タレントの極端な二極分解が起こる。TVの時代では10分間だけ誰もが有名になれるといった予想はある意味で間違っている。考えてみるとそういう二極分解は、他の分野でも起こっている。コンピュータソフトもその一例だろうが、幸か不幸か、コンピュータソフトは何時までたっても、コンピュータ本体の技術変化と連携しながら全く新しいソフトの市場が出現するので、表計算とかワープロとか、確立された分野で市場が確定しても、どんどん新しい市場の中でチャンスが現れる。
生身の人間方はそれ程簡単でもないし、楽観もできない。一番悲観的な見方をすると、世の中の職業は極めて競争的で高収入かつ専門性の高い一握りの職種と、残りの大部分の人間がありつける、退屈で低収入、将来の展望のないデッドエンドジョブに二極分解するかもしれない。最初の方で頑張る人もその大部分は、超一流の極くわずかの例外を除くと、必ずしも満足な人生を送れるか疑問視することもできよう。年収1000万あれば、悪くはないと思う人でも自分がプロ野球選手で、年収1000万とそれに対応する評価しか受けていなかったら本当に満足できるだろうか?
所得だけの問題ではない。こういう未来像が与える不安感の少なからぬ部分は、所得があまりにもあけすけにそのひとの職業評価に結びついていることの救いのなさにもある。そういう酷薄さをニューヨーク程、はっきり見せてくれるところは他にないだろう。
(続く)
2004年1月29日
12月中旬にほぼ4ヶ月ぶりに日本へ戻り、年末・新年の行事を例年と同じように消化、長男のセンター入試の様子も見届けて、ニューヨークへ戻ってきた。年末に日本に戻る直前から冬の寒さも本格化して、覚悟の上だったが、それでも吹き付ける風が肌を刺すように痛い。先週の週末、久しぶりにセントラルパークを通り抜けて、5番街まで買い物に出かけたが、池は凍りつき、樹木も霧氷で白く別世界のようだ。ハドソン川も一部凍結し、人が上に乗っても大丈夫なくらいの氷が流れている。5番街の買い物のあと、チャイナタウンに買出しに。Canal
Street を吹き抜ける風の冷たさに思わず眼だし帽を買って顔を蔽う。手袋、ダウンジャケット、ゴム長靴、眼だし帽で完全武装だ。 翌週、ワシントンからボストンへ行く途中の山内氏とやはりチャイナタウンで待ち合わせ、夕食を一緒にするが、山内さんも私のことが目の前に来るまで誰か判らなかったとのこと。はっきりいって、どんな風に自分が見えるか、この寒さでは考えたくもない。
2004年3月26日
この2ヶ月は、日本との往復、短期間で、積み残してきた京大の色んな雑務の消化や長男の受験のための多少の手伝い、放置されている共同研究の再スタート、等々、どれといってすぐには結果の見えない仕事に追われた。あっというまに年度末、4月に予定している研究発表のための論文完成を急がなければならなくなった。ニューヨークに戻った日から時差も解消しないまま、殆ど徹夜状態でほぼ1週間をすごす。色々不満だらけではあるが、ともかくも自分が何を主張したいかだけは、明確になった。この研究は一口にいえば、高校生の就職市場を日米で比較しようとするものであるが、どうやら、発想に無理があり、日本はともかく、米国の場合、高卒者だけを取り上げて、就職市場を考えること自体がどうも間違っている。とりあえず日本の場合だけをまとめる論文となったが、未消化の論文がいつもそうなるように、今回もやたらと長大なものになった。
何とか論文を仕上げて、ほぼ2週間後、ジョージ・ワシントン大学での研究会でセミナーとなった。討論者の黒澤さんはもとより、夫君の林文夫氏まで、来ていただき、恐縮する。セミナーは比較的良く出来た。論文の仕上がりに比べて、発表がうまくゆくことが近年だんだん目立ってきた。喜ぶべきか、悲しむべきか? ワシントンはすっかり春の陽気、上着を着て、ユニオン駅(列車でNYから到着)から地下鉄に乗り、最寄り駅から徒歩で大学に向かうとうっすら汗までかいてしまう。

2004年4月某日
東海岸に滞在したことがある人はご存知だと思うが、春から初夏にかけて、当地では、孵化間もない渡り蟹が市場やレストランに出回る。もとより、この類の海産物が好物なうえ、新鮮な魚介類が日本ほどには簡単に入手できないNYに生活しているとなれば、週に2-3回のペースで料理するか、レストランで注文。
NYでグルメの食材店といえば、第一に思い浮かぶのがZabars’(上写真)だが、ここは新鮮な魚介類は全く扱っていない(但し、スモークサーモンの品揃えはすごいものがある)。鮮魚になるとチャイナタウンにかなりの数の魚屋があり、概して値段も安いが、結構当たり外れが大きく、買い込みを済ませて勇躍アパートに戻って、料理してみると、がっかりということも多い。随分割高でも、当たり外れの少ないのは、やっぱり高級店。アッパーウエストだとCitarella本店(76th at Broadway)と幾つかの支店を持っており、本店はZabars'のある、ブロードウェイ沿いで、Zabars' から歩いて直ぐ。合わせて10回ソフトシェルクラブを料理しただろうか。一番簡単なのは、そのまま低めの温度でフライにすること。パン粉よりも片栗粉のから揚げの方が、蟹自体が柔らかいので揚げやすい。揚げたてをレモンと塩で食べれば、殻ごとバリバリといくらでもおなかに入ってゆく。ちょっとした発見は、42丁目の西のはずれ、PABTよりもまだ西、9番街沿いの小さなタイ料理店で食べたもの。甘酢あんかけも悪くなかったが、ガーリックを十分利かせたから揚げが絶品だった。
大学院生時代の貧乏生活の時も、この蟹だけは財布をはたいて何度も食べたのを思い出す。順風満帆で、人生をまっすぐ進んでいるときより、淀んでこの先どこへ向かうか判らない、そんな不安で不安定な時期にこそ、食べ物の強烈な記憶や体験が残るように思う。そうするとこんなにも、渡り蟹が今回も美味なのは、あんまり歓迎すべきことではないのかも知れない。
2004年8月28日
丁度NY滞在を始めて丸1年経って、この滞在の最後の2ヶ月を過ごすべく四度目のNY到着となった。期間はきっちり8週間、今回はNYUでの義務も(オフィスも)ないので、アパートとコロンビア大学の間の往復である。今回は滞在期間が限られているので、この5月まで利用した、コロンビア大学のアパートは日本帰国時に引き払い、改めて住居を探すことになった。
またしても色々探した末最終的に落ち着いたのは、49丁目で8番街と9番街の間にあるアパートの一室。当然賃貸契約は2ヶ月では不可能なので、又借り(サブレット)である。このアパート、実に理想的な条件で、他のことはいざ知らず、今回も住まいだけは文句のない、満足の行くものだった。ブロードウェイとの交差点を超えて49丁目と8番街のあたりに地下鉄1番線の駅があって、そこからアパートまで5分。週末になると、3-4ブロック北のビルの屋上でジャズの生演奏をやっており、双眼鏡を片手に窓を開けると、無料のライブが楽しめる。小さいがキッチンはコロンビアのアパートより使い勝手も良く、何よりも住人が実に整理整頓が行き届いて、清潔そのもの、無線のインターネット、CATV、電話全て完備!
で、何も問題はないかというと、実は全く何も無い、というわけではなかった。結論から言えば、問題といっても大したことはなく、入居時に驚くほどきれいに整っていたアパートを借りたのだから、当然、清潔で整った状態で元の住人に返すべきなのであり、案の定、帰国後、幾つかカーペットや家具に汚れがあるとの連絡。殆ど丸2日かけて、ピカピカに磨き上げたのに、といささかむっとしつつも、応分の賠償には無論応じると返事をすると、先方は、実に几帳面に専門のクリーニング業者に見積もりを取って了解を得たいとの返事。100ドルにもならない金額で、一も二も無くOKの返事を出し、支払いを済ませて落着したのだった。
と、滞在の最後の話を最初にここで記しているのは、そのアパートをサブレットしてくれた住人が、実に興味深い人物だったからだ。幾らなんでも、ここまでアパートのロケーションを特定してしまうと、その人物が誰かまで判ってしまうので、以下では、本質的でない詳細部分は、ちょっとぼやけさせることにしよう。
この人物(以下では仮にチャン氏と呼ぼう、但し中国系だという意味ではない)は、日本の高校生でも知っているくらいの米国の超一流を優等で卒業し、これまた負けず劣らず超一流の法科大学院を卒業し、現在民事専門の、これまた、その筋のひとであれば、すぐに思い浮かぶ、巨大法律事務所のジュニアパートナーである。国籍は米国だと思われるが、生まれたのはアジアのある国、移民の両親に生まれた2人兄弟の兄。アパートの鍵の受け渡しを代理してくれた、チャン氏の弟が、これまた、超一流大学の現在3年生、同国人の可愛いガールフレンドと二人で私の到着を待ち受けていた。といった来歴や詳細は、部屋の中に飾ってある卒業証書や写真その他から容易にわかるばかりでなく、本人が数度、郵便物をピックアップするために、アパートまで来て、半時間ほど何回した話の中で知った。アジア人らしいが決して嫌味にはならない程度に部屋のインテリアも統一されており、アパートのドアを開けた途端、一目で気に入った。
と、ここまで書けば、ははーん、と気づく人も少なくないが、彼はほぼ確実にホモである。几帳面さ、趣味のよさ、二重丸がつく学歴と経歴、世の女性には気の毒だが、これで女性の影が見え隠れしない人物がNYに住んでいたら、ほぼ確実にその人物は女性には興味がない。
その代わりといっては語弊があるが、強烈な上昇指向の持ち主でもあった。そもそも、9-10の2ヶ月だけアパートを留守にするという、私にとっては理想的な貸主のやむを得ぬ都合は何だったのか? これも2004年9-10月という時期、バリバリの若手弁護士、上昇指向の強いアジア系弁護士、といったヒントを集めると、勘の良い人は自ずから正解に到達するのではないだろうか
チャン氏は、9-10月の2ヶ月、民主党大統領候補ケリー氏のキャンペーンに参加し、全国を飛び回るため、法律事務所を2ヶ月休み、アパートをサブレットに出していたのである。もちろん、当選すれば、それなりのポストにありつく可能性も結構あったに違いない。ボランティアとはいっても、日本の新聞が麗々しく書き立てるように、文字通り手弁当でかけつけ、無心に応援するボランティアだけでキャンペーンが出来るわけが無い。宣伝関係のプロ、いわゆるロビイスト、弁護士、等々、キャンペーンの核となる陣容に連なる「ボランティア」たちは、阪神大震災で活躍した、毎日神戸まで自転車やバイクで往復した人達とは凡そ異なる人種である。かといって別に、それが悪いというつもりはさらさらない。チャン氏がベトナム戦争に従軍しながら反戦運動のリーダーとしても活躍した、筋金入りのリベラルであるケリー氏の当選を、自分の利害を離れても願い、また彼の主張に共感していたことに疑問の余地はない。それと同じくらい私が確信したのは、他方、ケリー氏に当選の望みがない泡沫候補であれば、チャン氏は決してキャンペーンには参加しなかっただろうといことだ。正確な年齢は聞かなかったが、卒業証書の年次からみると彼は未だようやく30代に入ったばかりだ。このしたたかさ、50代の私と話をして、いささかも動じることなく、アメリカ経済の問題について議論する姿、もちろん礼儀は尽くしつつ、貸主としての要求もきちんと念を押すそつのなさ。今更アメリカ賛美ではないが、こういう人物がごろごろいるところがアメリカの凄みである。正直、自分が30代の頃、チャン氏と会って、部屋を借りて、同じように出会い話しをしたなら、きっと圧倒されていたに違いない。
この文章を書いている今となっては、ケリー氏はブッシュに惜敗したこと、チャン氏の希望もむなしく、民主党大統領のホワイトハウスにポストを得て、ワシントンに移住、という計画は少なくとも2008年までおあずけとなったことも判っている。
それはさておき、いずれにしても縁は異なもの、こういう出会いや発見があるから、海外出張は面倒でも楽しみが多い。